ゲームの論とか言わせて

ゲームの話とかを書いてます。「とか」が多くを占めます。

考察諸々のまとめ

#5/2/2019 16:58:58 Tue
 
・不要な道具は無害
 ・大学や仕事で創作に関連しないことをやっていても、創作に支障は出ないってこと


・意思決定はジレンマを解消する力(一時的な衝突を解消する力)
 ・断捨離、バランス変更、住み分けと言った対処法がある


・ダラダラと何かをやる→意思決定を迫られ続ける→辛い
 ・個人であればダラダラしても問題ない(個人の問題として置いておける)が、多人数の企画等では余計に辛い(社会的な問題になる)
 ・衝突を避ける方法の一つが「時間の助けを借りる」ということ(∵時間の前では論理的矛盾(衝突)は無効)(「住み分け」に該当)
・時間の助けを借りるならば、創作・生活共々を委ねなければならない


本来は、時間の助けを借りるというポジティブな名分でスケジュールを立てるのに、それが上手く回らないのはなんでかといえば、
時間の助けを借りる必要がなくなってしまうからなんだよな。スケジュールの最初に取りかかると、その時点で衝突がないのでスケジュールを守る必要がなくなる。
そして気がつくと今度は別のもの同士で衝突しジレンマが生まれる。
常に別の事を考えるために衝突が収まらない、結果的に意思決定しない方がコストを割かずに済む、意思決定を迫られまくる方がいちいち助けを借りて対処するよりも楽で簡便に済ませられる。
でも、いい加減迫られることが辛くなってきた
そういう風に考えるのは創作の時だけでいいから、なんとか日常生活は普通にスケジューリングによって達成されたい。せめて生活だけは
でも、生活だけは守るとか言ったって、結局そこには「創作活動」と「日常」のジレンマが現れる。
どうすんだ?これ

共感はいかにして得られるか知っているか?

 俺は知らないけど、一個仮説を持っている。

「共感はその人の経験にがっちりと一致しない限り得られない」

すなわち、共感させたいと考えている相手の持つ経験に対して働きかけるような表現でない限り、相手からの共感は得られないという事である。

そして、この仮説は究極の共感は存在しえないという事を示してもいる。

言い換えると、その人のすべての経験に完全一致した表現を作る事なんて、普通は出来ないという事。我々は他者を完全に理解することなどできない。

そこで我々人間は仕方なく共感させるために働きかける経験を限定して、それをきっちりと作り上げるという事にしている。

しかしこれは何も悪いことではない。経験を限定することは、その経験をした人ならだれでも共感を得られるという事であり、多人数の共感を生み出すという事である。

 

作者の主張と共感について

・作者の主張自体に共感する人もいれば、作品のほかの要素に共感した人が作者の主張を知る(経験する)事もある。

→人間は他者の表現を享受することによって経験を増やす事が出来る。

→成長するには多くの経験が必要であり、他者の表現を多く享受する(自分に取り入れる)ことが一番の成長になる。

 

生み出す共感の総量が大きいと考えられるもの

・文化的に国民が経験している事

・最近起こった時事(享受する人間から考えて大体5年位前ならいいのか?)

・流行していること

・美しいと感じるデザイン

・分かり易いもの、前提知識を多く必要としないもの

・誰もわからないもの

 

共感と多様性について

・共感しないからと言って存在を否定することは、経験を否定する事に繋がる。

・経験を否定すると、その経験をしている他の人々から共感を得られない。→得られるはずだった他の経験も得られなくなってしまう

 

何を経験するべきか

・経験はそもそも選ぶものではない。えり好みをする結果、経験を多く得られないことだってあり得る。

・共感させたい相手がどんな人たちで、その人たちがどんな経験をしているか、自分はどのようにその経験に一致した表現が出来るか、という事が肝心である。

・逆でもいい。出来る表現から作れる経験を見つけ、それを経験している人たちが共感させたい相手かどうか、という順序である。

・必要なのは、人間の認知的な限界による経験の不完全さを補うこと。学習とは、認知的限界を超えて経験するための手段であるといえる。

・自分がその表現について得意か否かというのは、多くの場合自分の認知的限界によるものである。つまり、学習によって強化されている場合は、認知的限界に縛られずにより多彩な表現が可能になり、共感させられる相手が増える。

 

独学と共感について

・共感は自己と他人の間だけではなく、自己同士の間でも起こす事が出来る。つまり、自分が表現したものを自分で享受する場合である(私にとってはこの文章もそう)

・この時にするとまずいのは、他の経験をしないうちに再び自己表現に触れる事である。何故なら、そのようにして得られる経験は基本的に共感のみで構成されるからである。新たな経験がほとんど増えないので経験を増やしたり共感を得たりする事に繋がらない。ではこの場合何を得ているのかというと、おそらく学習の一環であろう。自己表現を、認知的限界を超えて経験するというわけである……と言いたいがコストパフォーマンスで言えば圧倒的に悪い。制作中に試行錯誤するからいくらでも学習してるのに、こんなことをしていては貧しいままで終わる。というか間を開けずに何度も確かめているという事はまだ試行錯誤の段階であるといえる。そんな状態のモノを外に公表するのは満足に表現できていない証拠であろう。とっとと決めてしまえばいい。決断には理由付けが必要である。

・とにかくいえる事は、時間を空けていれば問題ないという事である。

 

共感を利用する

使い道:

・新しい切り口で人々に共感させる

・共感させることで知らせたい情報・体験させたい事を経験させる

・自分の表現を更新する

備考:

・上記の使い道の場合、コンセプトは常に新しいことにすべきである。はき違えて共感させることを目的にしてしまうと、ただの「うまい作品」にしかならず、良作にはならない。

・先ほど書いた通り、経験が増える事は認知的上限をより緩和し、のびのびとした表現をすることにつながる。自己の経験の不完全さを減らしていき、完全一致といえるに近い状態まで自己の表現の精度を高めることが、共感させることについて自己を成長させる事に繋がる。

ホームページを変更しました

移行した時のことを記録する目的で記事を書きます

前のサイトは残しておきますが、おそらく何もしないでしょう

 

移行先はこちら

http://ry0um4.sakura.ne.jp/

 

移行前はこちら

http://kurokosmos.web.fc2.com/

 

移行した理由は次のようなもの

そろそろ独自ドメインのページを持ちたい

 書いてる段階ではまだドメインを取得していませんが、それはまだ短いことによるメリットがそれほど大きくないからです。短いと覚えやすい・パッと見て認識できるなどのメリットがありますが、それは多分、リアルイベントにて名刺交換をするときに役立つくらいだろう、という予想でいます。

 

CGIなどを使ってインタラクティブな・DBをもてるようなサイトにしたい→実験的なことをしたい

 Pythonをかじったのでなんらかの形で活用したい、というのがあります。

 

自分のポートフォリオ的な役割をもたせたい

 前のサイトでは一応なんらかの「組織」的な感じでいましたが、実態がわからない以上自分でも自分のことが分からなくなっていたのでやめたい、活動するのは現状自分一人だから、個人的なサイトとしてやっていくほうが締まりがいい。とか考えてます。

 

お金払えば更新とか多少は力入れるやろ

 まあもったいない精神です

 

ドメインは使われてなかった

 これは別に移行しなくてもいい理由ですね

 

サイトのデザインに飽きた。もっとわかりやすいものにしたい

 前のサイトはフッターにfc2のリンクがあり、無料スペース特有の制約のためにリンクを上に固めていましたが、流石に下半分を空白な状態では見栄えも悪く、アイコンもちょっと控えめだったんですね。

 

元サイトのコンセプトがはっきりしない

 なんだよクロコスモスって、となりあやふやな基盤で活動を続けることに自信がなくなりました。 現在の元サイトを見るとわかると思いますが、明らかに私用スペースになっていたところがあり、誰が見ても得をしない(自分でも得をしなかった。書いたのがかなり前で、そんな時のTODOリストは見た時に使えないから)状態でした。

 改めて定義すると、自分がしたいことは「自分を知る・知った人に気持ちよくなってもらう」ことでした。そこで、自分を前面に押し出したサイトデザインにして、その中で自分の好きな開放的で静寂感のある少しレトロな気持ちのいいコンテンツを出していこう、ということで進めることにしました。

 

というわけで、さくらインターネット様の一番安価に始められるプラン( https://www.sakura.ne.jp/lite.html )を申し込みました。(これを書いてる時はギリギ2週間の無料体験期間中だった)

大手だけあって、設定の仕方などの説明も十分にわかる形でされており、非常にやりやすかったです。

 

また、移行した現在、僕はサイトに以下のことを期待していますがこれは僕が確信をもたずにごまかして主張していることです。要約すると自己管理がなってないって話です。ええ。 

 

生活や活動がもっと円滑に進められるかもしれない・習慣も変わるかも(もっと規則正しくなる?)

 サイトの更新を別の仕事が増えたという風に認識することがないように生活することが求められているという話ですね。

 

ゲームとか技術的なこととか学習内容とか、サイトを通してそういうのを実生活上でも充実させたい

 ブログタイトルにもある通り、僕はゲームに関心があり、また自作して売ってみたいとも考えています。しかし現状色々な物を他のことに使っていて全く手がつかない状態です。これを変えられたらなと思います。

 

絵やデザインをやれるかもしれない

 現状ですら両立ができていないのにさらにやりたいことを増やそうとしています。このままでは破綻します。

 

統一感を出して一貫性のある表現ができるかもしれない

 統一感に必要なものは論理性です。サイトを移行したことと統一感がでることの間には論理的な繋がりはありませんが、コンセプトを考えたのをキッカケに、ここでの人称は何がいいか、漢数字を使うべきか否かなど、そういう細かいところから全体の方針まで決める習慣がつくといいなと思っています。能力的に色々なことができる以上、自分から切り捨ててデザインしていく練習が必要なのだと思います。

 

言葉にしておくと色々捗っていいですが、あまり抽象的な話をするとメタ思考の深みにはまって死ぬのでほどほどに具体的に書かなくてはなぁと思うこの頃であります。

 

4年くらい必要だった

何の話かというと、メタ思考についての経験を確信に変えることに4年必要だった、という。

今の確信事は主には次のようなもの。

・メタ的な考えからはメタ的なものしか生み出されない
・必要なのはモデルについての思考であって、メタについての思考ではない

という2つだ。

  • 考えてみてほしい。いくら小説を読んで「尺的にこうなるのかな」と考えてもそれはまず当たらない。「尺的にそろそろオチだな」ということは考えられるけれど、それはメタの領域を出ていない。実存の領域に入ることはありえない。いくら映画やアニメやラノベを見て「物語はこういうものだ」という事を考えてても、一向jに小説が作れていない自分が一番わかった。
  • 「メタ思考っぽいもの」としてモデルをあげたけれど、他にもあるかもしれない。言いたい事は、モデルならば入口と出口があり、それは両方とも自分の外側にあるという事だ。メタの領域は入口が脳内、出口がこういう文章だったり脳内だったり発話だったりする。例えば、音楽でいう音階や和音の話はモデルだけれど、それらによってできる曲について自分がどう考えるか、という事はメタな思考だと思う。どちらも同じ抽象化で在るけれど、これくらいの違いがある。
  • 脳内で完結するから、基本的には自己の内に在るものを扱う思考だと言える。つまり自己言及にはうってつけの思考形態である。
  • 自己啓発は何も生まない。今までそういうの多めに漁ってきたけれどもうやめる。
  • ゲーム論はモデルを作る方向で書いていくことにする

コーダーの成長要素について考察および自分語り

最近、AtCoderのコンテストに参加するようになって、自分のコーディングの癖がどんなものなのかについて少し考えて見た。そして、次のような仮説を作るに至った。

コーダーとしての成長段階(および異性へのアプローチの方法):
⓪知覚-選定-(相手を見定める)

 ・問題の本質を理解できる。
①行動-実装-(相手にアプローチをする)

 ・問題を解決できる。
②学習-洗練-(自分がきれいになる、愛想よくする、はっきり喋る、リアクションを取るなど)

 ・実装に無駄がない、デバッグがしやすい、判断しやすい等の特徴を持ったコードがかける。
③知識-同調-(相手の好みに合わせる)

 ・アルゴリズム、言語やPCの好み・癖を知り尽くし、問題に対して最適な手法で取り組める。

 

・上の仮説を作った後で、『「自分の得意なものは………です」なんて言うけど、それって単なる順序の違いを表したまでで、一定レベルまで行く人はどれについてもレベル相応の能力があるんじゃないだろうか』と言う考えに至った。

 

・どうも自分は選定・洗練・同調せず、実装のみをするコミュ障らしい。(上の考えによれば、実装から始めがちであるという話だ)

選定しないから誤解される(する)し、洗練しないから避けられるし、同調しないから好まれない。

・パソコンはスペックが上がったことによって洗練と同調についてある程度目をつぶってくれるようになったから、実装でゴリ押しても生きていけてるんだろうなとも思う。

物語の考察(まとまってない)

 物語を書こうにもひねくれていて踏み出せなかった間に考えていたことを載せてみる。

まず、時間と幻想というもので人間の感じ方を分けてみたいと思う。

時間というのは論理的なもので、「Aをやっていたが代わりにBをやってもよかった」「カエルは卵→オタマジャクシ→成長してカエルになる」

というような、「筋道が付けられたり他の可能性が考えられる」という思いが生じている状態だ。

幻想というのはそれの否定であり、「今はAしかありえない」「オタマジャクシはオタマジャクシであってそれ以外の何物でもない」のような、「筋道がたてられず、他の可能性も存在しない」という思いが生じている状態だ。

というように定義してみる。

そして、物語をこの幻想を体験させるための手段として考えれば、世にある物語の突飛さがある程度許されるのは、この幻想の状態ではそれが自然だからではないか、という思いに至った。

逆を考えると、ご都合主義があるというよりか「ご都合主義批判が存在する」という事は、物語を時間的にとらえて思考している存在のあらわれだともいえる。

また、物語においてのオチの働きは、幻想から時間へと認識を変えることにあるとも言える。

そのために落ちには新展開が来る。それまでに語っていたことが完結し、一見無関係のような新展開で締めくくる。

オチの前は「キリがないと思わせられる状態」か「キリがあると思わせられる状態」だ。

質より量というよりも質に量、の話

「量をこなせば質は上がる」という言葉は好きじゃない。

自分は量をこなそうと思ったらクオリティはほぼそのままで労力が増える人間なので。

質を上げる行動をする、その試行錯誤のことを量といってるのであり、量があるから質が上がるんじゃなくて、質が上がった時には量をこなしていた (試行錯誤していた)という方が自分はしっくりくる。

「人に量をこなそうって言われても何の為にやるのか分からない」のは当たり前で、「質が上がったと人に言われる(評価される)のはどんな行動なのかを模索する」くらいの感覚で行うべきだ。「評価される」と言っても、「これなら評価されるだろう」というような打算的な、予測的な行動ではなく、「実際に評価されたか否か」で決まることなので、ただただ行為して、結果を観測して、ありうるものを減らしていくだけでいい。そのサイクルの早さは人の成長の早さと言っていいと思う。

古典物理学のような「理論通りに動くはずだ」ってことは通用しない。そもそもその理論は何度も実験によって試され・実証されてきた、いわば「評価された」ものであり、それを利用しているだけだ。個々人の評価される行動(つまりのちに「評価された」になるような行動)は共通の理論なんてほとんどない。就く職業も学ぶ事も人間関係も身体能力も違う人間の、それらの特性に沿った理論なんて、サンプルが少ない。古典物理の法則等は、かなり過度な抽象化を行った結果得られた理論なので、かけ離れていると言える。数学や言語は純粋に抽象物なので、予測や評価などとは無関係な対象である。

 

ブログの話で言えば、記事をたくさん書く人間が質を上げるというよりも、質の上がる人間は量をこなしていたという方が言ってることはしっくりくる気がする。東大を例に挙げるなら、東大に入れば頭がいい人という訳ではなく、頭のいい人が東大に入ることが多いくらいの、そんな論理が逆といった話のようでどちらかというと傾向の話。