ゲームの論とか言わせて

ゲームの話とかを書いてます。「とか」が多くを占めます。

ホームページを変更しました

移行した時のことを記録する目的で記事を書きます

前のサイトは残しておきますが、おそらく何もしないでしょう

 

移行先はこちら

http://ry0um4.sakura.ne.jp/

 

移行前はこちら

http://kurokosmos.web.fc2.com/

 

移行した理由は次のようなもの

そろそろ独自ドメインのページを持ちたい

 書いてる段階ではまだドメインを取得していませんが、それはまだ短いことによるメリットがそれほど大きくないからです。短いと覚えやすい・パッと見て認識できるなどのメリットがありますが、それは多分、リアルイベントにて名刺交換をするときに役立つくらいだろう、という予想でいます。

 

CGIなどを使ってインタラクティブな・DBをもてるようなサイトにしたい→実験的なことをしたい

 Pythonをかじったのでなんらかの形で活用したい、というのがあります。

 

自分のポートフォリオ的な役割をもたせたい

 前のサイトでは一応なんらかの「組織」的な感じでいましたが、実態がわからない以上自分でも自分のことが分からなくなっていたのでやめたい、活動するのは現状自分一人だから、個人的なサイトとしてやっていくほうが締まりがいい。とか考えてます。

 

お金払えば更新とか多少は力入れるやろ

 まあもったいない精神です

 

ドメインは使われてなかった

 これは別に移行しなくてもいい理由ですね

 

サイトのデザインに飽きた。もっとわかりやすいものにしたい

 前のサイトはフッターにfc2のリンクがあり、無料スペース特有の制約のためにリンクを上に固めていましたが、流石に下半分を空白な状態では見栄えも悪く、アイコンもちょっと控えめだったんですね。

 

元サイトのコンセプトがはっきりしない

 なんだよクロコスモスって、となりあやふやな基盤で活動を続けることに自信がなくなりました。 現在の元サイトを見るとわかると思いますが、明らかに私用スペースになっていたところがあり、誰が見ても得をしない(自分でも得をしなかった。書いたのがかなり前で、そんな時のTODOリストは見た時に使えないから)状態でした。

 改めて定義すると、自分がしたいことは「自分を知る・知った人に気持ちよくなってもらう」ことでした。そこで、自分を前面に押し出したサイトデザインにして、その中で自分の好きな開放的で静寂感のある少しレトロな気持ちのいいコンテンツを出していこう、ということで進めることにしました。

 

というわけで、さくらインターネット様の一番安価に始められるプラン( https://www.sakura.ne.jp/lite.html )を申し込みました。(これを書いてる時はギリギ2週間の無料体験期間中だった)

大手だけあって、設定の仕方などの説明も十分にわかる形でされており、非常にやりやすかったです。

 

また、移行した現在、僕はサイトに以下のことを期待していますがこれは僕が確信をもたずにごまかして主張していることです。要約すると自己管理がなってないって話です。ええ。 

 

生活や活動がもっと円滑に進められるかもしれない・習慣も変わるかも(もっと規則正しくなる?)

 サイトの更新を別の仕事が増えたという風に認識することがないように生活することが求められているという話ですね。

 

ゲームとか技術的なこととか学習内容とか、サイトを通してそういうのを実生活上でも充実させたい

 ブログタイトルにもある通り、僕はゲームに関心があり、また自作して売ってみたいとも考えています。しかし現状色々な物を他のことに使っていて全く手がつかない状態です。これを変えられたらなと思います。

 

絵やデザインをやれるかもしれない

 現状ですら両立ができていないのにさらにやりたいことを増やそうとしています。このままでは破綻します。

 

統一感を出して一貫性のある表現ができるかもしれない

 統一感に必要なものは論理性です。サイトを移行したことと統一感がでることの間には論理的な繋がりはありませんが、コンセプトを考えたのをキッカケに、ここでの人称は何がいいか、漢数字を使うべきか否かなど、そういう細かいところから全体の方針まで決める習慣がつくといいなと思っています。能力的に色々なことができる以上、自分から切り捨ててデザインしていく練習が必要なのだと思います。

 

言葉にしておくと色々捗っていいですが、あまり抽象的な話をするとメタ思考の深みにはまって死ぬのでほどほどに具体的に書かなくてはなぁと思うこの頃であります。

 

4年くらい必要だった

何の話かというと、メタ思考についての経験を確信に変えることに4年必要だった、という。

今の確信事は主には次のようなもの。

・メタ的な考えからはメタ的なものしか生み出されない
・必要なのはモデルについての思考であって、メタについての思考ではない

という2つだ。

  • 考えてみてほしい。いくら小説を読んで「尺的にこうなるのかな」と考えてもそれはまず当たらない。「尺的にそろそろオチだな」ということは考えられるけれど、それはメタの領域を出ていない。実存の領域に入ることはありえない。いくら映画やアニメやラノベを見て「物語はこういうものだ」という事を考えてても、一向jに小説が作れていない自分が一番わかった。
  • 「メタ思考っぽいもの」としてモデルをあげたけれど、他にもあるかもしれない。言いたい事は、モデルならば入口と出口があり、それは両方とも自分の外側にあるという事だ。メタの領域は入口が脳内、出口がこういう文章だったり脳内だったり発話だったりする。例えば、音楽でいう音階や和音の話はモデルだけれど、それらによってできる曲について自分がどう考えるか、という事はメタな思考だと思う。どちらも同じ抽象化で在るけれど、これくらいの違いがある。
  • 脳内で完結するから、基本的には自己の内に在るものを扱う思考だと言える。つまり自己言及にはうってつけの思考形態である。
  • 自己啓発は何も生まない。今までそういうの多めに漁ってきたけれどもうやめる。
  • ゲーム論はモデルを作る方向で書いていくことにする

コーダーの成長要素について考察および自分語り

最近、AtCoderのコンテストに参加するようになって、自分のコーディングの癖がどんなものなのかについて少し考えて見た。そして、次のような仮説を作るに至った。

コーダーとしての成長段階(および異性へのアプローチの方法):
⓪知覚-選定-(相手を見定める)

 ・問題の本質を理解できる。
①行動-実装-(相手にアプローチをする)

 ・問題を解決できる。
②学習-洗練-(自分がきれいになる、愛想よくする、はっきり喋る、リアクションを取るなど)

 ・実装に無駄がない、デバッグがしやすい、判断しやすい等の特徴を持ったコードがかける。
③知識-同調-(相手の好みに合わせる)

 ・アルゴリズム、言語やPCの好み・癖を知り尽くし、問題に対して最適な手法で取り組める。

 

・上の仮説を作った後で、『「自分の得意なものは………です」なんて言うけど、それって単なる順序の違いを表したまでで、一定レベルまで行く人はどれについてもレベル相応の能力があるんじゃないだろうか』と言う考えに至った。

 

・どうも自分は選定・洗練・同調せず、実装のみをするコミュ障らしい。(上の考えによれば、実装から始めがちであるという話だ)

選定しないから誤解される(する)し、洗練しないから避けられるし、同調しないから好まれない。

・パソコンはスペックが上がったことによって洗練と同調についてある程度目をつぶってくれるようになったから、実装でゴリ押しても生きていけてるんだろうなとも思う。

物語の考察(まとまってない)

 物語を書こうにもひねくれていて踏み出せなかった間に考えていたことを載せてみる。

まず、時間と幻想というもので人間の感じ方を分けてみたいと思う。

時間というのは論理的なもので、「Aをやっていたが代わりにBをやってもよかった」「カエルは卵→オタマジャクシ→成長してカエルになる」

というような、「筋道が付けられたり他の可能性が考えられる」という思いが生じている状態だ。

幻想というのはそれの否定であり、「今はAしかありえない」「オタマジャクシはオタマジャクシであってそれ以外の何物でもない」のような、「筋道がたてられず、他の可能性も存在しない」という思いが生じている状態だ。

というように定義してみる。

そして、物語をこの幻想を体験させるための手段として考えれば、世にある物語の突飛さがある程度許されるのは、この幻想の状態ではそれが自然だからではないか、という思いに至った。

逆を考えると、ご都合主義があるというよりか「ご都合主義批判が存在する」という事は、物語を時間的にとらえて思考している存在のあらわれだともいえる。

また、物語においてのオチの働きは、幻想から時間へと認識を変えることにあるとも言える。

そのために落ちには新展開が来る。それまでに語っていたことが完結し、一見無関係のような新展開で締めくくる。

オチの前は「キリがないと思わせられる状態」か「キリがあると思わせられる状態」だ。

質より量というよりも質に量、の話

「量をこなせば質は上がる」という言葉は好きじゃない。

自分は量をこなそうと思ったらクオリティはほぼそのままで労力が増える人間なので。

質を上げる行動をする、その試行錯誤のことを量といってるのであり、量があるから質が上がるんじゃなくて、質が上がった時には量をこなしていた (試行錯誤していた)という方が自分はしっくりくる。

「人に量をこなそうって言われても何の為にやるのか分からない」のは当たり前で、「質が上がったと人に言われる(評価される)のはどんな行動なのかを模索する」くらいの感覚で行うべきだ。「評価される」と言っても、「これなら評価されるだろう」というような打算的な、予測的な行動ではなく、「実際に評価されたか否か」で決まることなので、ただただ行為して、結果を観測して、ありうるものを減らしていくだけでいい。そのサイクルの早さは人の成長の早さと言っていいと思う。

古典物理学のような「理論通りに動くはずだ」ってことは通用しない。そもそもその理論は何度も実験によって試され・実証されてきた、いわば「評価された」ものであり、それを利用しているだけだ。個々人の評価される行動(つまりのちに「評価された」になるような行動)は共通の理論なんてほとんどない。就く職業も学ぶ事も人間関係も身体能力も違う人間の、それらの特性に沿った理論なんて、サンプルが少ない。古典物理の法則等は、かなり過度な抽象化を行った結果得られた理論なので、かけ離れていると言える。数学や言語は純粋に抽象物なので、予測や評価などとは無関係な対象である。

 

ブログの話で言えば、記事をたくさん書く人間が質を上げるというよりも、質の上がる人間は量をこなしていたという方が言ってることはしっくりくる気がする。東大を例に挙げるなら、東大に入れば頭がいい人という訳ではなく、頭のいい人が東大に入ることが多いくらいの、そんな論理が逆といった話のようでどちらかというと傾向の話。

書く内容が後になればなるほど破滅していく話

自分語りしまーす

 何も生産していないので、何か書くだけでもしようとして、最近考えてたことを引っ張り出して纏めてみようとして、分量が小さいので肉付けしようとして、なぜか書いてたことよりも話が発展して、結果的に纏りにくくなって、一部をよく考えたら前にブログに書いてあったことじゃんと思い出して、繰り返しを避けようと書くのに戸惑って、思ったより書き終わるのに時間がかかるのがストレスになって、適当なところで妥協して大雑把に書いて、何のために書いたのかその記述行為の意味を疑って、結局は暇つぶしだったんだなという結論で、やはり何も生産してないじゃんかと一人で悟る。

 

 結論を先に書いてあとから補足するという形でブログを書くと、どうもどこまで肉付けしたらいいのか分からなくなる。

書き方が英語の文法のそれだ。主文を書いてからあとから補足情報を書く。

 問題は、自分がコミュ障なので何処で区切ればいいのか分からなくなることだ。

 コミュ障と言えば、会話中の質問で、その内容を相手が答える前に訂正する、という事を最近頻発している。これ、自分がやられるとストレスになりそう(そういう人を見たことはないから憶測だし、自分はこうだから相手もそうだろう、というのは全く一般には通用しない)。言い始めてから考えてるからかもしれない。難しい。

 もう一つの問題は、話が急に飛躍しているという感覚があること。段落として続いている分である以上、論理の筋道をつける必要があるが、それを書くことを怠っている。普段から箇条書きをしている癖なのだろうか。メモを文章に翻訳する時はどうもそのままつなげるってわけにはいかない気がする。

 あとは、相手が答えてくれた時に、「確かに正しいんだけど、これも考えた方がいいよね?」的な指摘をすることも問題にはある。この種の発言はエゴの押し付けの気がしている。人に対して論理的正当性を押し付ける発言なので、いくらか心苦しい。エゴ発言は相手に要求せずに虚空に投げとく程度がちょうど良いと今おもった。

 発言が論理的に正しくない(または、話の本筋からそれてる)のを自分で感じ取り、すぐに訂正しようとして発言を中断、訂正しようとする。そこでさらに間違うと収拾がつかなくなり、会話が果てる。論理的に正しい話をしないのに訂正しようとするので地獄になる。訂正しようとしなければいいけれど、一方で正しいこと言ってない自分は相手に信用されないんじゃないだろうか、という感覚もあり、……などと気持ち悪い思考が走る。

 話は変わるが、最近twitterみてると「~~(何らかの名詞,体言)、---(~~に続けて何か書く)」という形態の文が散見される。別に悪くないしじゃんじゃか使っていいと思うけど、なんか鼻につく書き方だなと見るたびに思うようになった。それでもたまに自分でもその型で呟くことがあるのでこれ以上は言わない。

最近考えてる分類

何も考えないよりはましだと思って、とりあえず分けるってのをやってる。

最近の奴をブログに書いてみることにした。

快楽と快適、慈愛

快楽が、「何かをした対価として何かを得る」事

快適が、「何かをすること自体が得ることになる」事

慈愛が、「何をしたかに関わらず得られる」事

フィードバックがどう来るか、という違いで分けている。

歩合制は「終わるたびに払う」システムなので快楽に当たる。

快楽の場合、自分の能力のみにより報酬が左右されるので不安定だが、やりようによってはいくらでも稼げる。自己責任。

慈愛というのは、例えば月払いのような「継続して払われる」システムだ。これは自分の行為にほとんど関係なく支払われる。ある場合では、労力の方が報酬よりもかかり大変である。

快適は、「する事自体がうれしい」というやつ。作業興奮のようなものだと思う。「やりがい」なのだろうか。ちょっと違う気がする。

 

「今」と「過去、未来」

 我々が予想する未来というのは、「過去から予測される(考え出される)もの」なので、過去の延長上にある。「本当に未来を知ること」はできない。

 例えば、スケジュールを立てることを考えると、それを使う頃には、立てたスケジュールは過去のモノになっている。実際には予想外、想定外の出来事が起こることがあり、計画通りには進まないかもしれない。スケジュールを守るというのは、過去の予測を実現させるという意図的な行為だ。量子力学の「観測するまで位置が分からない」という奴はこれだと思う。

 とすると、残された「今」というやつが一番新しい存在だという話になるが、コイツをはっきりと認識することは難しい。まずいい定義が思いつかない。過去でも未来でもないという論理的で後ろ向きな表現では満足したくない。誰か教えて。

抽象経験と具体経験

抽象経験が「同じ視点から多くの物を見る」事で得られる経験で、

具体経験が「同じ物を多くの視点から見る」事で得られる経験。

抽象経験は一般論を導き出す一方で、具体経験はその特徴(言わば個性)を導き出す。

Youtubeとかで流し見する場合は抽象経験、

一本の動画をいろんな方法で見る(サイトの違いかもしれないし、倍速や逆再生かもしれない)のが具体経験。

少し変わるけど、「Youtuber、ジャンルで見るか一人を見るか?」という話でもあると思う

この二つの経験は科学と芸術の違いに近い気がする(無責任発言)。