ゲームの論とか言わせて

ゲームの話とかを書いてます。「とか」が多くを占めます。

コーダーの成長要素について考察および自分語り

最近、AtCoderのコンテストに参加するようになって、自分のコーディングの癖がどんなものなのかについて少し考えて見た。そして、次のような仮説を作るに至った。

コーダーとしての成長段階(および異性へのアプローチの方法):
⓪知覚-選定-(相手を見定める)

 ・問題の本質を理解できる。
①行動-実装-(相手にアプローチをする)

 ・問題を解決できる。
②学習-洗練-(自分がきれいになる、愛想よくする、はっきり喋る、リアクションを取るなど)

 ・実装に無駄がない、デバッグがしやすい、判断しやすい等の特徴を持ったコードがかける。
③知識-同調-(相手の好みに合わせる)

 ・アルゴリズム、言語やPCの好み・癖を知り尽くし、問題に対して最適な手法で取り組める。

 

・上の仮説を作った後で、『「自分の得意なものは………です」なんて言うけど、それって単なる順序の違いを表したまでで、一定レベルまで行く人はどれについてもレベル相応の能力があるんじゃないだろうか』と言う考えに至った。

 

・どうも自分は選定・洗練・同調せず、実装のみをするコミュ障らしい。(上の考えによれば、実装から始めがちであるという話だ)

選定しないから誤解される(する)し、洗練しないから避けられるし、同調しないから好まれない。

・パソコンはスペックが上がったことによって洗練と同調についてある程度目をつぶってくれるようになったから、実装でゴリ押しても生きていけてるんだろうなとも思う。

自動操縦/物語の考察(まとまってない)

 最近のライフハックは、「体を自動操縦に任せる」って事です

 自動操縦ってのは例えであって、意思を働かせて朝起きようだとか、意思を働かせて勉強しようだとか、そういったことを一切やめるというものです

 今までは、どこかそういったネットで出てくる方法的な精神的なことを探して「これだ!」みたいなモノを見て満足し(たり、ごくまれにやったりし)ていました。しかし、上手く継続する事が出来ない自分に失望し、鬱々とした気分になっている事が割と多くありました。

 自分の中では、自動操縦時の私は、自分の意思による干渉を受けることなく物事を進められる(素直に行える、という感触が近い)ので、作業効率が上がったような感覚があります。無意識的に利益になる行動を起こしているとも考えられます。

ただ、この自動操縦状態は、矛盾したものやダブルブッキングなどにはめっぽう弱いようです。ここは手動で駆動させねばなりません。

 

 前半の内容で書いた状態だったため、物語を書こうにもひねくれていて踏み出せなかった間に考えていたことを載せてみる。

まず、時間と幻想というもので人間の感じ方を分けてみたいと思う。

時間というのは論理的なもので、「Aをやっていたが代わりにBをやってもよかった」「カエルは卵→オタマジャクシ→成長してカエルになる」

というような、「筋道が付けられたり他の可能性が考えられる」という思いが生じている状態だ。

幻想というのはそれの否定であり、「今はAしかありえない」「オタマジャクシはオタマジャクシであってそれ以外の何物でもない」のような、「筋道がたてられず、他の可能性も存在しない」という思いが生じている状態だ。

というように定義してみる。

そして、物語をこの幻想を体験させるための手段として考えれば、世にある物語の突飛さがある程度許されるのは、この幻想の状態ではそれが自然だからではないか、という思いに至った。

逆を考えると、ご都合主義があるというよりか「ご都合主義批判が存在する」という事は、物語を時間的にとらえて思考している存在のあらわれだともいえる。

また、物語においてのオチの働きは、幻想から時間へと認識を変えることにあるとも言える。

そのために落ちには新展開が来る。それまでに語っていたことが完結し、一見無関係のような新展開で締めくくる。

オチの前は「キリがないと思わせられる状態」か「キリがあると思わせられる状態」だ。

質より量というよりも質に量、の話

「量をこなせば質は上がる」という言葉は好きじゃない。

自分は量をこなそうと思ったらクオリティはほぼそのままで労力が増える人間なので。

質を上げる行動をする、その試行錯誤のことを量といってるのであり、量があるから質が上がるんじゃなくて、質が上がった時には量をこなしていた (試行錯誤していた)という方が自分はしっくりくる。

「人に量をこなそうって言われても何の為にやるのか分からない」のは当たり前で、「質が上がったと人に言われる(評価される)のはどんな行動なのかを模索する」くらいの感覚で行うべきだ。「評価される」と言っても、「これなら評価されるだろう」というような打算的な、予測的な行動ではなく、「実際に評価されたか否か」で決まることなので、ただただ行為して、結果を観測して、ありうるものを減らしていくだけでいい。そのサイクルの早さは人の成長の早さと言っていいと思う。

古典物理学のような「理論通りに動くはずだ」ってことは通用しない。そもそもその理論は何度も実験によって試され・実証されてきた、いわば「評価された」ものであり、それを利用しているだけだ。個々人の評価される行動(つまりのちに「評価された」になるような行動)は共通の理論なんてほとんどない。就く職業も学ぶ事も人間関係も身体能力も違う人間の、それらの特性に沿った理論なんて、サンプルが少ない。古典物理の法則等は、かなり過度な抽象化を行った結果得られた理論なので、かけ離れていると言える。数学や言語は純粋に抽象物なので、予測や評価などとは無関係な対象である。

 

ブログの話で言えば、記事をたくさん書く人間が質を上げるというよりも、質の上がる人間は量をこなしていたという方が言ってることはしっくりくる気がする。東大を例に挙げるなら、東大に入れば頭がいい人という訳ではなく、頭のいい人が東大に入ることが多いくらいの、そんな論理が逆といった話のようでどちらかというと傾向の話。

書く内容が後になればなるほど破滅していく話

自分語りしまーす

 何も生産していないので、何か書くだけでもしようとして、最近考えてたことを引っ張り出して纏めてみようとして、分量が小さいので肉付けしようとして、なぜか書いてたことよりも話が発展して、結果的に纏りにくくなって、一部をよく考えたら前にブログに書いてあったことじゃんと思い出して、繰り返しを避けようと書くのに戸惑って、思ったより書き終わるのに時間がかかるのがストレスになって、適当なところで妥協して大雑把に書いて、何のために書いたのかその記述行為の意味を疑って、結局は暇つぶしだったんだなという結論で、やはり何も生産してないじゃんかと一人で悟る。

 

 結論を先に書いてあとから補足するという形でブログを書くと、どうもどこまで肉付けしたらいいのか分からなくなる。

書き方が英語の文法のそれだ。主文を書いてからあとから補足情報を書く。

 問題は、自分がコミュ障なので何処で区切ればいいのか分からなくなることだ。

 コミュ障と言えば、会話中の質問で、その内容を相手が答える前に訂正する、という事を最近頻発している。これ、自分がやられるとストレスになりそう(そういう人を見たことはないから憶測だし、自分はこうだから相手もそうだろう、というのは全く一般には通用しない)。言い始めてから考えてるからかもしれない。難しい。

 もう一つの問題は、話が急に飛躍しているという感覚があること。段落として続いている分である以上、論理の筋道をつける必要があるが、それを書くことを怠っている。普段から箇条書きをしている癖なのだろうか。メモを文章に翻訳する時はどうもそのままつなげるってわけにはいかない気がする。

 あとは、相手が答えてくれた時に、「確かに正しいんだけど、これも考えた方がいいよね?」的な指摘をすることも問題にはある。この種の発言はエゴの押し付けの気がしている。人に対して論理的正当性を押し付ける発言なので、いくらか心苦しい。エゴ発言は相手に要求せずに虚空に投げとく程度がちょうど良いと今おもった。

 発言が論理的に正しくない(または、話の本筋からそれてる)のを自分で感じ取り、すぐに訂正しようとして発言を中断、訂正しようとする。そこでさらに間違うと収拾がつかなくなり、会話が果てる。論理的に正しい話をしないのに訂正しようとするので地獄になる。訂正しようとしなければいいけれど、一方で正しいこと言ってない自分は相手に信用されないんじゃないだろうか、という感覚もあり、……などと気持ち悪い思考が走る。

 話は変わるが、最近twitterみてると「~~(何らかの名詞,体言)、---(~~に続けて何か書く)」という形態の文が散見される。別に悪くないしじゃんじゃか使っていいと思うけど、なんか鼻につく書き方だなと見るたびに思うようになった。それでもたまに自分でもその型で呟くことがあるのでこれ以上は言わない。

最近考えてる分類

何も考えないよりはましだと思って、とりあえず分けるってのをやってる。

最近の奴をブログに書いてみることにした。

快楽と快適、慈愛

快楽が、「何かをした対価として何かを得る」事

快適が、「何かをすること自体が得ることになる」事

慈愛が、「何をしたかに関わらず得られる」事

フィードバックがどう来るか、という違いで分けている。

歩合制は「終わるたびに払う」システムなので快楽に当たる。

快楽の場合、自分の能力のみにより報酬が左右されるので不安定だが、やりようによってはいくらでも稼げる。自己責任。

慈愛というのは、例えば月払いのような「継続して払われる」システムだ。これは自分の行為にほとんど関係なく支払われる。ある場合では、労力の方が報酬よりもかかり大変である。

快適は、「する事自体がうれしい」というやつ。作業興奮のようなものだと思う。「やりがい」なのだろうか。ちょっと違う気がする。

 

「今」と「過去、未来」

 我々が予想する未来というのは、「過去から予測される(考え出される)もの」なので、過去の延長上にある。「本当に未来を知ること」はできない。

 例えば、スケジュールを立てることを考えると、それを使う頃には、立てたスケジュールは過去のモノになっている。実際には予想外、想定外の出来事が起こることがあり、計画通りには進まないかもしれない。スケジュールを守るというのは、過去の予測を実現させるという意図的な行為だ。量子力学の「観測するまで位置が分からない」という奴はこれだと思う。

 とすると、残された「今」というやつが一番新しい存在だという話になるが、コイツをはっきりと認識することは難しい。まずいい定義が思いつかない。過去でも未来でもないという論理的で後ろ向きな表現では満足したくない。誰か教えて。

抽象経験と具体経験

抽象経験が「同じ視点から多くの物を見る」事で得られる経験で、

具体経験が「同じ物を多くの視点から見る」事で得られる経験。

抽象経験は一般論を導き出す一方で、具体経験はその特徴(言わば個性)を導き出す。

Youtubeとかで流し見する場合は抽象経験、

一本の動画をいろんな方法で見る(サイトの違いかもしれないし、倍速や逆再生かもしれない)のが具体経験。

少し変わるけど、「Youtuber、ジャンルで見るか一人を見るか?」という話でもあると思う

この二つの経験は科学と芸術の違いに近い気がする(無責任発言)。

身しかない変な考え

・ゲームと依存症?

ははぁ……。

izons.net

最近このページを見ては、「依存症になるようなゲームは良いのか?」というで悩んでいる。

作る側はそんなこと考えなくていいと思うか?作る側からすれば、そんなのプレイヤー側の自己責任だろ、というかもしれない。 

正直なところ、評価なんて個人個人で変わってしまうものだから、一概に悪いとかいいとか言っちゃうのは総論的な解決をしない。

 

……とか書いたりしてみる事が出来るのは、私がゲームを今現在全く作ってないからである。

作っちゃえばいい。「ぼくのかんがえたさいきょうのげーむ」を頭に浮かべただけの自分が人様に影響を与えられるはずがない。

 

・人に遊んでもらいたいなら作れよと思う。

思っているのにやめられない

最近の自分が、どうもやる前から色々と考えすぎる傾向にある。

これってある意味依存症な気がする

糞みたいなクソゲーしか作れないのが「分かっている」から、それを避けようとして皮算用をしている。

 

・人のまね位しかしてきていない気がして来た

 オリジナリティという言葉の意味をはき違えて、「人とは違う」事をやろうとするけれど、その割には他の多くの人のことを知ろうとしない。

Originalという言葉は「根源の」という言葉がしっくりくる。

「自分の創作が始まりだ」ということではなく、

「自分の創作が何かの根源に(深く)かかわる」ということの方が今の私にはしっくりくる。

 私の体は私のオリジナルだし、オリジナルソングは自分や他人の根源にかかわるからオリジナルソング、OSTは作品の根源にかかわるからオリジナルサウンドトラック……。

オリジナリティを追求するってことは、本質を極めるって事と同義だ。

 そしてその方法は「人と違うことをする」ではないのである

 「他の人より根源に近い事をする」という点では、「人と違うことをする」に当てはまる気もするけれど。

根源を見極める方法として科学があるのだと思う。

 他の人の作品との比較によって変わるところと変わらないところが分かり、有機的な概念のつながりが生まれる。これによってより根源の、より核心的なものを見つけることが出来るのだ。

 だから、「人のまねをする」ことは比較材料を手にする手段の一つと考えれば全く悪い事ではなく、むしろオリジナル性が上がる行動なのではないだろうか。

あくまでも手段の一つなので真似だけしていればいいってもんでもないけど。

 

ただ真似をしているだけじゃダメなのだろう。

いちいち振り返って考察を深めていかなければ、物を作る目線は浅いままになるのではないのかなーと思う。

全然具体的じゃないですね。

これもある意味「抽象依存」といえるかもしれない

 

 

ゲームとストーリーについて

ゲームにストーリーって必要なのか?という話はもう随分他のブログでは語られているけど、そういうのあまり参照せずに持論を書いてみる。

 

トーリーとは

物語。誰かのお話を語った・語るもの。

トーリーの役割とは

持論はこう

 

「ゲームプレイ以外の時間にプレイヤーの動機付けをする」

 

楽に言うと、「ゲームプレイ同士の間をもたせる」というか。

ゲームプレイ以外の時間とは、プレイを始める前、プレイ終了後、ステージクリア後から次のステージまでの間といったような時間だ。

こういうことを言うのには、私の考えるゲームの楽しさが関係している。

プレイの楽しさは後からやってくる

ほぼ日刊イトイ新聞-脳の気持ちになって考えてみてください。 〜「やる気」と「脳」の話を、池谷裕二さんと。〜

「やりはじめないと、やる気は出ません。
 脳の側坐核が活動すると
 やる気が出るのですが、側坐核は、
 何かをやりはじめないと活動しないので。」

(この記事をteruyastar(id:teruyastar)氏のブログで知りました)

側坐核 - Wikipedia

活動をすると側坐核が働いて報酬系が働き楽しくなる云々(よく知らない)

プレイすることが楽しさにつながる。ゲームの本質的楽しさはここにあると思う。

では、プレイヤーはどうしてゲームをやろうと思う?

プレイ前のプレイヤーはゲーム的楽しさを感じていないのだから、気まぐれでやろうとか思わない限り無理では?

いやそういう話だけじゃない。

人によって楽しさを感じる度合ってやっぱり変わってくると思うけど、多くの人々がはたして「このゲーム、プレイ自体が楽しい!」と思って続けてくれるだろうか。次ステージに向かうだろうか。チュートリアルから抜け出して進めてくれるだろうか。

トーリーで終えてしまったゲームがある

ポケモン不思議のダンジョン
赤の救助隊 | Wii U | 任天堂

個人の話で言えば、それはポケダン赤だ。あれはストーリーが終わった後徐々にやる気が失せてしまった。不思議のダンジョン系は面白いシステムだが、当時の自分は自力で新しいダンジョンに挑戦していかなかったので同じステージを繰り返すようになり飽きてしまった。グミを多く集めてリザードンに全部つぎ込んで以来ほとんど触れていない。

なぜ続けられたのか

お話が面白かったから、なのだろうか。

探索時にやっていること自体はほとんど同じなのにあれだけ楽しめたのは、毎回ストーリーに変化があったからだ。そのおかげで繰り返しだと認識しなくなっていた。

ゲームプレイ以外の経験ってストーリー体験くらいしか残らない?

ゲームでしている事って、

・ゲームの設定(音量、難易度、どのステージにするか等)

・ゲームプレイ(アクション、移動、アイテムやりくりなど多岐にわたる)

に加えて、

・ストーリーを体験する

 もある。じゃあストーリーの役割はというと、残されたこと全部だと思う。すなわち

「ゲームプレイ以外の時間の間を持たせる」

ということだ。

トーリーがあるから次のステージに進む理由が生まれる。ストーリーの先が知りたいからゲームプレイを進める。

ゲームにおいてそれ以外の要素はおそらく上記3つの補助演出として働いている。

 

理由と行動を提示し、「あとは解決するだけだ!」とプレイヤーに促している、と言ってもいい。

行動に一連の関連を作り、プレイヤーのプレイの整合性を保証しているのだ。

まぁ、どうぶつの森Minecraftなんかは最初の理由提示が少なく(タヌキチとか夜の時間とかくらい?)、自分で見つけなければならなかったりするけど。

ゲームにストーリーは必要なのか?

答えは「ストーリーは多くの場合必要だが、本質的な楽しさであることは稀だ」。

重要なのは「間を持たせる」ことだ。例えば、

テトリスやチェス、将棋、七並べなどで、ストーリーを感じる必要はない。あれらは単一の課題によってもたらされるゲームだから、「間=休憩やゲームをしていない時」となる。

・逆に、RPGは課題が多岐にわたる(おつかい、謎解き、雑魚戦、ボス戦等)ので、スムーズにゲームを進めさせるうえでどうしても理由が必要になる。そこでストーリーが必要になるのだ。

・ストーリーを読ませるタイプのゲーム(ノベルゲー)は、「読むこと」が課題になる。ヒロインの好みとかを覚えていないと先に進めないゲームとかは存在している。

 

いうなれば、RPGとノベルゲーで求められるストーリーは、そもそも役割が少し違う。

RPGは話として次の課題に繋がれば問題ない。シンプルであるほど理由が理解しやすく進みやすくもなる。

ノベルゲーは読ませなければならないので、ある程度複雑になってしまう。理解に時間をかけさせる事で読ませている節もある。後はビジュアルで引き寄せたりなど。