Ry0um4's blog

自分の活動(音楽、プログラミング、ゲーム)や考察、日誌などについてのブログです

何にも手がつかない、やりたい事があるけど「どうすれば」となって手が止まる、やりたい事がたくさんある、みたいな時に読むと参考になるかもしれない

何にも手がつかない、やりたい事があるけど「どうすれば」となって手が止まる、やりたい事がたくさんある、みたいな時に読むと参考になるかもしれない

最近、自分の全般の行動について一つ思いついたことがあるので書いておきます。

・自分は「やること」を書いたらそれしかやりたくないらしい

 背景に付随する諸々の雑事が済んでいないものを準備ができていない、とみなす
 ・例えば「スピーチをする」としたら、
  ・本番までにする練習、暗唱
  ・身振り手振りや衣装などの演出面の決定
  ・スピーチする内容
  ・スピーチ出来る状態に体を整えること
  などは「スピーチをする」に含めて考えたりなど一切しない。
  TODOにありがちなツリーの構造で物事を捉えてなど全くいない
  言葉で例えるなら、「条件が整ったらその行動が発生する」というプログラムをやること毎に仕込んであり、それが脳内に全て共存している
  という感じである。そのため複数の行動が同時に発生することがあり、そこでどの行動をとるかという葛藤が生まれ、プログラムがスタックする。全てのタスクは等しく存在しているので、優劣をつけられないのである。
 判断基準があるとすればリズム感であろうか。(よくわからん)


 ・だから何かしたいと思ったら、その「何か」を書いてそれに付随する条件を追加で書き、その「何か」が発生するように行動をとるべき。
  しかし、ここで網羅しようとして一般的にその条件から再帰的に「すること」を呼び出すのってある意味悪循環なんですね
  なぜなら、意識の低い僕からしたらこの段階で書き出す条件に含まれることが全て「既になされている」か「すぐになされる」かのどちらかでない限り、その「何か」は一生為されないことだからですよ

  一生為されないがゆえに条件を掘り下げるという行為そのものが永遠に続く。やがて本来の仕事そのものの労力以上にその「掘り下げ」に労力をかけてしまう(恐ろしいことにこの掘り下げは一ミリも仕事を進めません!)。それで未遂の仕事を細分化するのが面倒になり、先延ばしに繋がるわけです。
  すなわち、「習慣的に行われている事」の延長線上にある(=習慣で条件を満たせる)ことしかTODOには組み込めない。
  そりゃ大志を抱いてそれをTODOに書いたって出来るはずがないですわ

 

(ちょっと備考(追記))

 ・何かをするのを諦めるために理由をいくらでも並べる事があると思いますが(時間が無い、金が足りないなど)、それらは「既になされている」・「すぐになされる」の中に含まれない要素からいくらでも再帰的に呼び出して構成する事が出来るタイプのものです。

 ・この再帰処理をやると仕事量が膨大に見える&要求水準が上がるというのも曲者。キャパの小さい僕のような無能にとって、やる事なんてのはシンプルに扱いたいものです。

 


 ・だからね、本当はそのあとに何が必要かっていうとね、
  今ある習慣(誰に言われなくてもやってることとや、普段使っている手段も含まれる)を把握して、その中から条件に派生させるようなアイデアを考案することよ
  そのアイデアを『定着させるところから、その「何か」が求められる時期を過ぎるまで』
  を必要な期間として習慣として続けて(派生なので出来る)
  機会(それがいつなのか定まっていようが定まっていまいが)に備えるべきなんですよね
  今までうまくいってきたことや好きを持続させられた事ってのは全部それを無意識におこなってきたに過ぎないのよね
  そうしてやりたいと思うことややらなければならない事は全て「今できる」か「今はできない」かの二つに分類できて、
  今はできないものについては前提条件を習慣化させる事で「今できる」へと移行させる
  一方今できるものについてはいつやるか、いつなら出来るかを予め見積もることができるので安全に処理ができるというわけです。

 

(追追記)

 ・これ、創作における「とにかく完成させろ」の話にも通じます

  創作ってのは言うなれば「今できない(今その創作物を享受できない)」を「今できる(創作物を享受できる)」にする活動なんですよね

  だから物を作りたいと思っているなら、前提である「完成させる」はいち早く習慣化されるべき条件です。完成させるという行為が創作の「できない→できる」というキモを表した言葉ですから。『完成させなきゃ次はない』なんていう強すぎる言い方をされてしまうのも無理はないほどに、創作においては重要な習慣だといえます。

  とすると、考えこんじゃう人は今度は「完成させる」を再帰的に満たそうとするじゃないですか。(完成させるとは何か?を考えて要素をあげつらって、うまい事満たそうとする(=完成を完成させようとする))

  それじゃダメなんです。これだといつまでも再帰的に「完成」が完璧に近づき続ける/水準があがる/詰め込みたくなる/メリハリがつかなくなる、などの症状が起きます。

 

  「完成させる」もアリモノで済まし続けなければならないんですよ。

 

  つまり、今まで生きてきて持っている「完成させる」という行為を「いま為そうとしている創作」に無理やりあてつけつづける。

  「無理やり」という言葉が気に食わなければ、遊び半分で、とか、軽い気持ちで、とか、ウケを狙って、とかでもいいです。……え?それじゃ成長しないって?いいものは作れないって?

  成長は成長そのものの力で出来るものじゃありません。一個人の行為・存在が発生し続けた結果変容したことを成長と称しているだけの話。そして如何様に変容するかは行為・存在が身を置く環境によるところが大きい。

  大きいですが、ここで我々には行為・存在を派生させることが思いっきり許されています。

  ここでアタマを使う。

  アイデアを出してなるべく望み通りの行為・存在に変容するよう工夫するわけです。望みの「いいもの」が出来上がるように変容していく。それらは環境(自分の視点、やり方なども含む)を自分で変えるのと同じです。

  そもそも環境ってのは外的要因なのですから、他者や自分の干渉があり、自分の望む環境が常に保たれるとは限らない。まあそれでたまたま都合のいい環境を引き当てた人が望みの状態に変容できる事もあるわけですよね(運が良かったとか環境のおかげとかいうタイプの成功体験はこれだと思う)

  そしてそもそも「望み」ですらアイデアです。「望み」という形にすることで行為・存在の派生を志向する工夫なわけです。

  いうなれば、環境と望みの間には相互関係があると言えます。そしてどんな望みを持っていようと、それは環境が自分に働きかけた結果が自ずと導き出させた事なのです。(どんな望みを持つかは……それまでの生き方次第でしょうか?わかりません)

 

 話を戻して

  何がいいたいかというと、「完成させる」はさせ続ければ必ず変化する。でも環境によって得られる「完成させる」の変化が望みと違うなら、アタマひねって自分で変えなきゃならないことはある。

 

 

  で、ここで使えるのが他人の事例だったりするわけです。自分で環境を変える際に「どう変化するのか」というのが先人たちが偉大にも残してくれた記録として売られてたり情報として参照できたりすることがある。そうすると自分の望みに近いものはどれかという事から変え方を推測できるのです。

  推測が出来る事は、無限の猿に知性を与える事と同義です。知性は足を前に進め、時間の密度を圧縮させる。推測できない事は、地道に総当たりするしか無く、半ば虚無に等しい道をたどることになります。

  虚無がつらい人は他人の事例をなるっべく参考にして推測しまくりましょう。楽に生きる事は人生を豊かにしますよ。きっと。

  虚無がつらくない人でも、息を長くしていたいなら適度に中庸を得るために、他人の事例は使うのがせめてもの落としどころです。

 

  僕はシンギュラリティを見たいので少なくとも2045年までは生きられるように他人の事例を使おうと思います。