言わせて

自分の活動(音楽、プログラミング、ゲーム)や考察、日誌などについてのブログです

言い換えてみる

言い換えてみる
一つめ

脳には「外界と内界によって入力をもとに出力を適合させる」と言う側面と「入力と出力によって外界をもとに内界を適合させる」と言う側面があるのではないかと

この二つが必ず行われることによって人間は正常に動くことができるのではないかと

十分な睡眠をとる事は外側の適合させる対象を無くすことによって適合させようとする働きをやめさせることではないかと

一日の活動による適合させようとする働きをやめさせるには8時間程度の睡眠が必要なのではないかと(だから寝る前に端末を弄るのは余計に時間を掛けさせることになるのではないかと)

何かに適合しようとしている時の脳の方が何もない時の脳よりも、別のものに適合させようと言うときに余計に時間がかかるのではないかと

そこで時間がかかるために、睡眠に関する実験などで認知テストの成果を見て、効率が下がった、すなわち「認知能力がさがった」と言う判断が下されるのではないかと

早起きをするのは朝の予定に間に合うためで、早寝は健全に明日の予定を過ごすのに十分な睡眠時間を確保するためなのではないかと

二つめ

情報にも強さって尺度があると思うんですよ

強い情報ってのは認知に短い時間しか掛からないもの。例えばサイン波の音など。

弱い情報ってのは認知に長い時間を要するもの。極端な例はホワイトノイズなど。

強い情報は強いので非常に飽きやすいが情報として認知しやすい。弱い情報は弱いので飽きないものの情報として認知しづらい。

創作だと「作品内で情報をかせぐ」と言う言い回しがありまして、これってつまり強い情報を増やす(強い情報で情報量を増やす)ことなんじゃないかと

だから神は細部に宿るのではないかと

三つめ

何を知覚して・何を記憶したか、と言うことで物事に対しての立ち回りが作られるんじゃないかと

ネットや世間に蔓延る方法論をそのままやったって長続きしないのはただそれをやった・やり続けたからって、知覚するものや記憶するものが変容しないからではないかと

それで上手くいってるとすれば何処かでたまたまその両方がそれぞれ変容した・自力で変容させられたから(つまりまぐれ)なのではないかと

「ある知覚をしてあるものを記憶した結果」、「ある行動が生じある効果が認められる」のではないかと

これの後者ばかりが書かれているので方法論を論じる文章は大体そのままじゃ使えないのではないかと(「〇〇ができる人(ある効果が認められる人)は〇〇(ある生じた行動)をしている!」系の記事はそういう相関を取っている所に価値があるだけなのではないかと)

物質に頼ったり道具に頼ったりする場合は前者は必要ないので大体の場合方法論として使えるものになるのではないかと

本当は物質的なものでない場合は方法論よりも知覚や記憶に関しての道具が必要なのではないかと