ゲームの論とか言わせて

ゲームの話とかを書いてます。「とか」が多くを占めます。

自動操縦/物語の考察(まとまってない)

自動操縦/物語の考察(まとまってない)

 最近のライフハックは、「体を自動操縦に任せる」って事です

 自動操縦ってのは例えであって、意思を働かせて朝起きようだとか、意思を働かせて勉強しようだとか、そういったことを一切やめるというものです

 今までは、どこかそういったネットで出てくる方法的な精神的なことを探して「これだ!」みたいなモノを見て満足し(たり、ごくまれにやったりし)ていました。しかし、上手く継続する事が出来ない自分に失望し、鬱々とした気分になっている事が割と多くありました。

 自分の中では、自動操縦時の私は、自分の意思による干渉を受けることなく物事を進められる(素直に行える、という感触が近い)ので、作業効率が上がったような感覚があります。無意識的に利益になる行動を起こしているとも考えられます。

ただ、この自動操縦状態は、矛盾したものやダブルブッキングなどにはめっぽう弱いようです。ここは手動で駆動させねばなりません。

 

 前半の内容で書いた状態だったため、物語を書こうにもひねくれていて踏み出せなかった間に考えていたことを載せてみる。

まず、時間と幻想というもので人間の感じ方を分けてみたいと思う。

時間というのは論理的なもので、「Aをやっていたが代わりにBをやってもよかった」「カエルは卵→オタマジャクシ→成長してカエルになる」

というような、「筋道が付けられたり他の可能性が考えられる」という思いが生じている状態だ。

幻想というのはそれの否定であり、「今はAしかありえない」「オタマジャクシはオタマジャクシであってそれ以外の何物でもない」のような、「筋道がたてられず、他の可能性も存在しない」という思いが生じている状態だ。

というように定義してみる。

そして、物語をこの幻想を体験させるための手段として考えれば、世にある物語の突飛さがある程度許されるのは、この幻想の状態ではそれが自然だからではないか、という思いに至った。

逆を考えると、ご都合主義があるというよりか「ご都合主義批判が存在する」という事は、物語を時間的にとらえて思考している存在のあらわれだともいえる。

また、物語においてのオチの働きは、幻想から時間へと認識を変えることにあるとも言える。

そのために落ちには新展開が来る。それまでに語っていたことが完結し、一見無関係のような新展開で締めくくる。

オチの前は「キリがないと思わせられる状態」か「キリがあると思わせられる状態」だ。